MacBook Air 11インチ欲しい!

MacBook Air 11インチ欲しい!

年が明けて、本格的に寒くなってまいりました。氷点下を過ごすには、いささか、衣服が足りず、震えている毎日です。

AppleMacBook Air は、発熱量抑えめで、お肌に優しい暖房器具と聞いております。桜の花咲く頃まで、この寒さをやり過ごせますよう、ぜひとも1台、当たりますように、と願う日々でございます。

よろしくお願いします。

ある大晦日の出来事

ある大晦日の出来事です。

我が家では、新年は「おせち」を食べて「あけましておめでとう」と、年明けを祝うことを年中行事にしていました。

その年もまた、同じように、おせちを用意しようと思いましたが、クルーポンというサイトで高級おせちが半額というのを知り、頼んでみることにしました。

元旦の朝、子供たちが起きた時に、「わ〜、おせちだ〜!」と、いつもと同じ光景が見られることを予想して。

謹製おせちは、大晦日に届きました。その三段重ねの重箱を開けた時に、事件が起こりました。

中身がすかすかなんです。

品数が足りないんです。

お昼になるのを待って、クルーポンさんに電話を入れました。

責任者の方が出てこられて、こんな対応をされました。

「あー、スカスカですか。それは申し訳ないですねー。でもね、それは作ったハードカヘの責任なんです。ハードカヘの社長に電話をしてください。電話番号を言いますんでー」と。

少し「ん?」と思いながらも、ハードカヘに、妻が電話をしたんです。

晦日に、ハードカヘに電話してみるとわかりますが、繋がらないんですよね。

1時間に4回くらいの割合で(あまり回数が多いと愛知県警に逮捕されるので)、夕方くらいまでかけたんです。

タイミングも悪かったとも思うんですが……。

けれども、とうとう繋がらなかったんです。

紅白歌合戦が始まった頃、妻は泣き始めました。

新年におせちが無い。

それでも気を取り直して、AKB48のメドレーの後に、クルーポンさんに、もう一度、妻が電話をしました。

同じ人が出てきて、同じ対応をされました。

そこで、僕はちょっと腹が立つのをこらえて、電話を変わりました。

そしてこう言いました。

「大晦日、お忙しいのに、クレームの電話なんかして申し訳ありません。もう『おせち』は結構です。もういいんです。電話を変わったのは、一つだけ、お伝えしたい事があったんです」

「はあ?」と相手の人は、警戒心を強められました。

何、言うんだろうな、電話を変わってまで……と思ったでしょうね。

僕はかまわず、こう続けました。

「僕が、そちらのお店で買ったもの、それはなんだか解りますか?

僕が買ったもの、それは……

七福神は、日本人の心の中にいますよね。

国民は、大晦日の夜、除夜の鐘を数えようと、夜更かしをするんです。

行く年来る年が始まっても、鐘が鳴り終わる様子はないんです。

そして、睡魔には勝てず、とうとう寝てしまいます。

次の朝には、食卓にはおせちが並んでいる。

そのおせちを見て、『あー、七福神は本当にいたんだー』そう思って、心踊らされて、のどに餅を詰まらせる。

その夢と国民の感動に、僕はお金を払ったんです。

僕がそちらで買ったもの、それはおせちでは無いんですよ。

その夢と感動です。

だから、元旦に、このおせちを食べる事が、どれ程大切かという事を、それだけは理解していただきたいと思うんです。

また、余裕がある時に代替品の方をお願いします」

そう言いました。

そして電話を切ろうとした時です。

その人は、しばらく黙っていました。

その後こう言われました。

「お客様、時間をいただけますか?」

「お客様がお買いになったおせち。超人気商品で、この店には在庫はございません」

それを聞いて、調べてくれたんだなぁと思って、胸が「ぐっ」となりました。

「でも支店を探してみれば、一つくらいあるかも知れません。もしあれば、今日中に届けさせていただきたいと思います。ちょっと時間をいただけますか?」

「えっ、本当ですか?本当にあれば凄く嬉しいです。お願いします」

僕は、そう言って電話を切りました。

電話を切ったあと僕は、「頼む。あってくれよ!」と期待に胸が張り裂けんばかりでした。

そして、ピンポンが鳴るのを心待ちにして、待ちました。

しかし、パフュームが歌い終わっても、誰も来る気配はありません。

妻は、すっかり寝支度ができて、布団の中に入りました。

「間に合わなかったな。きっと無かったんだな。来年の正月はガッカリだな。でも、こんな年もあるよな……」と諦めていた、その時です。23時45分頃でした。

「ピンポ〜ン!」とベルが鳴りました。

僕は「よし、来た!」っと、小さくガッツポーズをしながらも、何食わぬ顔で、玄関に向かいました。

ドアを開けたら、狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱えた恰幅の良い老人が、満面の笑みをたたえ、立っていました。

僕は驚きました。「えっ、えびす様?!」と思わず口に出ました。

その人は言いました。「七福神です。奥さんをお呼び下さい」

僕は、漠然とスーツ姿の人を、想像していました。

スーツ姿で、代わりのおせちを持ってくる、そう思っていました。

でも、僕の前に立っていたのは、えびす様でした。

僕は興奮して、妻を呼びに行きました。

「早く降りておいで」

妻は、何事かと、階段を下りてきました。

そして、その人の姿を見た瞬間

「えびす様だー!!」

驚きながらも、次の瞬間にはピョンピョン跳ねていました。

えびす様は、こう言いました。

「ごめんね。七福神は年末忙しくてね。すかすかのおせちを持ってきてしまったんだ。ごめんね。はい、これ。少し気が早いけど、お年玉」

そう言って、妻に熨斗袋を渡しました。

僕は、その人にお礼を言いました。

「ありがとうございました。本当に国民の夢をつないでくれました。七福神にまでなっていただいて、本当にありがとうございました」

その人はこう言いました。「私たちが売っている物は『おせち』ではないんです。夢と感動なんです。忙しさにかまけて、大切な物を忘れていました。それを教えてくれて、ありがとうございます」と。

「とんでもないです。こちらこそ本当にありがとうございます。こんなことをしていただけるなんて、これから僕は一生あなたのサイトのクーポンを利用します。いい会社ですね」と僕はそう言いました。

その人は泣かれました。

僕も思わず泣いてしまいました。

僕たちは、固い握手を交わし、彼は一礼すると、去って行きました。

傍らに立っていた妻は、小さく頷きました。

そして、妻が握りしめてた熨斗袋を開けると、中には「返金 おせち代 10,500円」と書いた紙と、現金が入ってました。

Web Design におけるナビゲーションの位置とか 2

せっかく書いたのに、はてなが混雑してて云々って消えたので、もうね、転載だけにする。ぷんぷん。

「body」と書いたのも悪かったかもしれないが、土曜日の話を一言で簡単にいえばこう。「サイト」なんて無用な単位なんだから、サイト単位での利用を促すだけの「ナビゲーション」なんて要らない。そして、そいつがサイトの利用を促す「広告」なんかではなく、コンテンツを補足し、ユーザーの求める情報へ誘導する真のナビゲーションなら、コンテンツの文脈に登場したって不自然ではない。むしろ自然。

Webサイトという概念自体がナニなんだよなとは思ってた。Googleがサイトトップで、目次で、インデックスで、ブックマークで、つまり全てはGoogleというサイトの一部なんぢゃないかと。いや、Googleぢゃなくてもいいんだけどさ。

所謂ナビゲーションを、UA側が処理するとうれしいな、っていうのは、こんなもの、サイト毎にひとつひとつ視覚整形してバカみたいと思ったからなんだよね。UAまかせでいいぢゃん。

結局の所、UAがナビゲーションだと判断できるものがナビゲーションなのだと俺は思っている。それ以外は擬似ナビゲーションでしかない。HTML5ではnav要素なんてものが用意されているらしく、もしこれがnav要素部分をUAがナビゲーションとして判別しツールバーやサイドバーなどを用い別途表示するような展開になるようであればLINK要素などとは比較にならない汎用性を持つ存在になるのではないだろうか。俺がlink要素に拘るのは現状唯一UAナビゲーションとして判別してくれる要素である点にある。

サイトのナビゲーションが必要な文脈においてはその通りだと思う。つまりそのナビゲーションがコンテンツの理解に役立ち、あるいは必要で、かつサイトをまたいでUIが一定であることに大きな意味があるのなら、それはもう素晴らしいユーザビリティの向上につながるだろう。

さてそのように考えた時、世の中のサイトとやらに存在している「ナビゲーション」は、コンテンツの理解には不必要で役に立たない、ただのサイト内広告だ。サイト内広告をブラウザが判別可能だということに、どれ程の魅力があるだろうか。

俺にとってのcontextualなナビゲーションは、アドレスバーがその一つだ。ここにキーワードを入力することによって、ナビゲーターであるFirefoxが答えてくれる。authorと入力すれば著者に関する情報が、conpareと入力すればそのページに言及している情報が表示される。どちらもfat linkであり、複数のウェブページが次々タブ等のUIを通じて表示される。このfat linkはHTML5とやらですら定義されていない。次世代のハイパーテキストシステムの重要な柱になりえるというのに、fat linkの実装もないなんて「HTML」が聞いてあきれる。それはさておき。

ここまではいいだろうか。ここが一番俺が重要だと思っている点なのだが、サイトの著者がlink[rel="author"]という要素で著者情報を示しているとする。しかし、果たしてそのリンク先が満足な情報を提示してくれるだろうか。誇大広告的な内容であったり、逆に謙遜しすぎていたりしないだろうか。著者について知りたいと思ったとき、著者自身の自己申告であるlink[rel="author"]より、それを含めたウェブ上の情報の方が、よほど豊かなものにならないだろうか。

つまり、ウェブブラウザが提供するナビゲーションは、広くウェブを対象にしたものでなければならない。俺はそう思う。思うというか確信している。サイト内広告は、それぞれのサイトが自分たちの領域でで勝手にやってくれればいい。しかしブラウザの領域にずかずか割り込んで広告をまき散らされるのは嫌なんだ。

もちろん、しっかりしたナビゲーションを正しく記述してくれるサイトもあると思う。しかしそれを期待するのは間違いだ。

確かにその理論ならばサイトナビゲーションは不要なものになるのは理解。極端な話、今や誰しもが「google検索」というナビゲーションとも取れるサービスを利用しており、趣旨としておそらく同様の方向性であるアドレスバーを使用したそのような仕組みが一般化すれば情報の公開の枠を超えて真の意味で共有の域に達するのかもしれない。「サイト」なんて無用な単位なんだから、サイト単位での利用を促すだけの「ナビゲーション」なんて要らないというのも肯ける。ただ、「author」「conpare」などといった定められたワード検索であるとしたらもはや普通の検索との明確な差を感じない。それとも検索とは違う別の何かなのだろうか。入力という一手間が生じるとしたら俺ならきっとその『fat link』なるもののアクセス先をやはりlink要素として用意すると思う。サイト内“広告”でもサイト“外”広告でも便利なものは貪欲に用いるべきだ。

話は逸れるけど、俺は「著者自身の自己申告」による自己紹介リソースはどのような内容であれ結構好きだったりする。以前別サイトを運営していた際に「aboutページ」が思いの外読まれていることを知ったので割と気合を入れて書いているつもりではあるのだが。今はアクセス解析をしていない(できない)のでよくわからないけど。他所様のリソースを参照した際は、肩書きなどだけぽつねんと書いてあったりすると残念ではあるが「自己紹介もできない人間か」という人間性を計る指針にもなる。

conpareはcompareの間違いだった。まあそんなどうでもいいことと同じくらい、入力手段は重要ではない。俺は、著者に関する情報の提供をブラウザがネイティブにGUI等で提供してくれないから、アドレスバーを媒介としてscriptletを走らせるという形で簡単に実装しているだけのことで、形はもっと便利になりうる。

普通の検索との違いは「コンテクスト」検索であるということ。今現在閲覧しているウェブページに関連する情報を検索する。精度が上がれば検索という「メタファー」は適切ではないと思う。誰もそれが検索結果だとは思わなくなるレベルに高まるのが望ましい。それを可能にするかもしれないのがSW

『fat link』なるもののアクセス先をやはりlink要素として用意するというのは、ウェブページにvalue値を予め設定したGoogle検索をつけているのと本質的に同じ。やっても害はないしむしろ有益になる可能性もあるが、ブラウザが実装すべき機能だとしか思えない。何というかな。ウェブページをインスタンスだとしよう。インスタンス生成毎にメソッドが再定義されるのがlink要素によるコンテクスト検索の実装。そうではなくて、メソッドはすでにクラスで定義されていて、インスタンスがメソッドを呼ぶ際に自分自身を引数として渡すのがブラウザが提供するコンテクスト検索。Python脳的な表現だが。

先ず一点、申し訳ないことに自作されたものと知らずに、てっきり『fat link』を空想上のものと誤解していた。理想や思想を掲げることは勿論大切なことではあるが、やはりそれを映しだす鏡が無ければ机上のなんとやらであり、とても虚しいものだ。故に自らの手で擬似的にせよその鏡となる媒体を創造している人に対しては最大限の敬意を払いたい。

ウェブを便利に使いたい、アクセス性を高めたいっていうなら、今あるウェブ資源は所与として自分からアプローチしないと。福音とは両輪なのだ。馬鹿は福音の方をばっさり切り捨てて片輪で走ろうとするが。

なんていうか、ナビゲーションとかパンくずリストとか、いろいろナニ。

Web Design におけるナビゲーションの位置とか

久々に更新。ていうか、気になることのメモ。ていうか、引用。ていうか、無断転載。

ナビゲーションは文書の前か後かどちらに記述するべきか、みたいな議論。前も糞もないだろうと俺は思うんだけど。その際、必ずといっていいほど音声ブラウザで云々というお話が出てくるのだけれど、結局後ろにした所で最後の方に読み上げる時に読み上げちゃうわけでしょ。ナビゲーションはやはり前でも後でもなくあくまでナビゲーションとして存在すべきなのできちんとヘッダーにまとめるべきだろう。必要な時に呼び出して使えるのがナビゲーション。

まあ、音声云々ってのはあるんだけど、ユーザーは、本文の内容を読みたくて、リソースを開くわけで、なのに、初っ端から「ナビゲーション」登場って、どういう了見なんだよって気がするのね。この本文は、内容が無いから、他のリソース当たってくれっていう意味なのかよっ、とか。

肝心なこと返事する前に、余計な紹介するとか、前置き長ぇよ、みたいな。さっさと話しやがれ的な。

本文、終わった後に読み上げるのは、まあ、許せるのよ。

前衛的な話をすれば、ハイパーメディアはそれ自体がナビゲーションで、ものによってはコンテンツとの境界は限りなくぼやけている。その意味では世間でナビゲーションと呼ばれているものをbody内に記述するのは自然であると思う。body内にあって不自然だと思うのは、それらのナビゲーションがコンテンツにとって不必要であるからに他ならない。そんなものはlink要素に追い出したって不必要なことに変わりがないと、俺は思う。

サイト全体が一つのソフトウェアとして有意であるというのなら必要な時に呼び出して使うという本質的な需要はあると思う。しかしここはインターネットだ。そのような属性を持ったサイトは現在進行形で減りつつあるし、あるいはそれらウェブサービスと呼ばれるようになった。

ユーザにとって必要なのは、およそ、その本文と(その関連情報)であり、「ナビゲーション」で誘ってるような内容では無かったりするわけで、ナニ。

視覚的な話として、body内にあることが不自然なのではなくてheadが基本的に見えないものとして扱われていることこそが不自然なのではないだろうかと思う。htmlなんて所詮headとbodyの二大要素をくっつけたものであり、極端な言い方をするなら「大差無いしろもの」だ。どっちも単なるhtmlの要素にすぎない。headもbody同様に見える存在であったならば、きっと多くの制作者達は必要なナビゲーションとしてhead――link要素を利用することが主流になっていたはずと思えてならない。ナビはheadに、内容はbodyに。スマートだ。title要素をわざわざh1要素に落として再記述することに不自然な感じを受けたことはないだろうか。titleに記述したものを素直にウインドウ内で可視化してくれれば何の違和感もないはずなのに。タイトルバーという狭いスペースに表示されることは派手さを望む大衆には受けなかった、というのは考えすぎだろうか。link要素も然り。headが見えない事の弊害と言っていい。Lynx等「見える」UAもあるし、MozillaiCab等に代表されるブラウザのナビゲーションバーに取り込むUAもあるけれど、やはり表現力としては貧しいもので結局はリッチな表現を求めた大衆の総意として画像等の使えるbody側にその位置を奪われてしまった、というのが現実なのだと思う。そのまま現在に至っただけということで。

Web「サイト」を閲覧するにあたって、ページ送りや戻りとか、一覧の収集なんてのが、それぞれのサイト毎に違うなんてことが、そもそもヘンテコリンなんであって、操作体系は、せめて、ブラウザ毎に統一できた方がいいんぢゃないか、とか思う。

TVのチャンネル毎に、ボリュームやチャンネルやなんかのインターフェイスが違ってたら、めんどくせえ気がするわけで。

link要素でサイトマップを指定したら、サイドペインに展開するとかいう機能が欲しいなあ、と思う。サイト編集者は、本文を書いて、サイトマップを更新するだけっていう、手間が少なくて済むわけで。

まあ、CMSとかあるよ、とかなんとか。

とりあえず、めもる。

追加する。

何年か前には熱心に議論してゐた事だけれども最近は最うこの手の事には興味を失つた。音聲ブラウザだつて今となつては何うせ「まともな作り」のサイトなんて滅多にあるまいと云ふ前提で作られてゐるだらうし、ならば「まともでない作り」である方が「正義」なのだ。Googleも「まともでない文書」前提のアルゴリズムでデータ蒐集とサイトの重み附けをやり始めてゐるだらうし、さうなると吾々がまともなHTML文書を作つても最早SEO的には何の役に立たない。金錢感覺のある人や世間の流れを讀める人は、「正しいHTML」なんてものに關はつてゐないで、「一般的」な文書を澤山作つてばら撒く事を考へた方がよろしからう。

なんていうか、「絶対に負けられない戦いが、そこにはある」んだけれど、それはもうお笑いでしかないんだよ、みたいな話でさ。

ブレーンプレーンテキスト最高!バンザイ!

はてダで Twitter のツイートまとめ

まあ、なんか意味無さそうなので、サブアカのダイアリーでやることにした。

Twitter は、こう使え、ブログは、こう使え、みたいな指針とかあるわけでもないので、ツイートまとめたってよさげではある。

ていうか、なんのために、文書を公開するのか、ってあたり。

まとまっていない、思いついたものをだらだらと流し続けるのもアリだし、なんかまとめて発表するのもアリだろうし。

Twitter はツイログがあるから、そっちでやれ、とかいうのも自由だし、どこでまとめようと勝手ぢゃん、ていうのも、それなり。

まあ、読み物として、楽しみにしてたら、今週からスタイルが変わりましたー、とかいうことになると、残念ってこともあるけど。

ていうか、このエントリー、Twitter に書いても、同じ雰囲気かもね。

2010年06月11日のツイート