無断リンク禁止は、WWW をどう考えているかの問題あたりらへん

ウェブを「無断リンクをしてもらうために文書を公開する場所」と解釈すると都合のよい人から見たら、ウェブはそのような場所に見えるのかもしれませんけど、そのように見えている人にとってはたしかに論じることがなくなってしまいそうですね。

かつて、tinycafe タンが「インターネットを図書館とか考えるのは間違いです。ホームページは『家』です」とか力説してたことがあったように記憶してるのだが、その時は、ふーん、とか思っただけで、深く考えなかったんだけど、色々見返すと、WWW を何に喩えるか、そのあたりらへんが「無断リンク禁止」を支える元になってるんだろうなあ。

WWW は図書館や本屋で、各リソースは本だったり、その頁だったりとか考えると、「私の本を読まないで」や「私の本に言及禁止」に繋がりそうな「無断リンク禁止」という発想は「変」だよなあ、とか思うわけだけど、WWW は「社会」であり、各リソースは「人」と考えると、そこに「儀礼的無関心」なんてあたりらへんも発生してくるし、「公」だけでなくて「私」も生じてくるわけで、そこらあたりらへんから「無断リンク禁止」が間違っていないなんて発想も生まれてくるんではなかろうかと。

で、WWW は「社会」なのかというと、生まれ落ちたら誰もがソコに参加せざるを得ないモノでもないという点で、そうではないだろうとか思うんだけど。

WWW に何かをまき散らすのは、希望者だけというわけで、つまり「私」の部分は、WWW には置かないという方法で、「私を見ないで」は防げるので、誰もがソコで生きなければならない「社会」とは違うんぢゃないだろうかと。ほんでもって、こういうことをぐだぐだ云々していると、「インターネットを何かに喩えるのは、もう止めよう」あたりらへんの話になるのかなあなんて。

だけど、そう言いつつ、WWW を、「公開するためのモノ」としてだけでなく、ぬるいコミュニケーションのためや、また「マイノリティの棲み分け」なんてのも必要なんぢゃないかなんて意見も出されつつ、だけど、現状だって、多くの「無断リンク禁止宣言サイト」は無断リンクされないで居るわけで、うだうだ語るのもばからしくなってきたなあ、などと思いつつ、「無断リンク禁止」は法的裏付けが無いので強制力がありません、とか口うるさく言ってないと、実はスゲー危機的状況なんぢゃないかとか思っているあたりらへん。