公開する事のリスクと儀礼的無関心

「公開する事のリスク」とは、何かを広く公開すれば、あまたの好奇の目に晒されるし、批判や批評を受ける事になる。それらに耐える覚悟が無ければ、何事も公開しない方が平和である、という話であります。つまり、何かを公開するというのは、本来、敷居が高いのです。

が、WWW というものは年々敷居が低くなり、猫も杓子もブログだのツイッターだのと、何かを広く公開する事が、技術的には非常に簡単になりました。しかし、一方、公開されたものが、好奇の目に晒されることや、批判や批評の対象となることは、以前も今も変わりはありません。

一般の人にとって、大勢の批判や批評に耐えうる覚悟はありません(というか、無いと思います、の方が良いかな)。なのに、技術的には敷居が低くなり、簡単に世界に情報発信などとうかれ、ブログを始め、思いもよらないところから批判され、慌てふためいたり、どういう根拠があるのか知りませんが、自ら広く公開しておきながら、リンク禁止とか言ってみたり、まさに「公開する事のリスク」について何も考えていないが故の現象が多々発生しています。

ここまでは、WWW にリソースを公開するという行為は、パブリッシングと同等であるという考え方に基づくものです。

簡単に言うと、本を出版してるのと同じなんだから、知らないところで、知らないうちに、勝手に読まれたり、勝手に書評(しかもすげぇネガティブなやつ)を書かれたり、そんなことは当たり前、当然の事という解釈が成立する世界であると。

扨、もう一方。

ここまで敷居が低くなってしまうと、パブリッシングというより、WWW はパブリックな場所という世界観で考えるべきぢゃないのかという話になってきます。つまり、WWW は駅のコンコースや公園みたいなトコロだから、そういう場所で過ごすのと同じようにコミュニケーションを考えてほしいというもの。

ここでは、「儀礼的無関心」が必要とされてきます。つまり、見て見ぬふりです。

公園で、絵を描いてる人に向かって、一般的には「スゲー下手!」とか指差して言わないのと同じように、そういうリソースを見つけたとしても、はてブなどでブクマして、「これはひどい」とか書いてはいけないという倫理観が、WWW においても、支配すべきなのだ、という考え方。

これらは互いに相反する世界で、前者は積極的にコミットしあい、そこに存在する者の世界を破壊または新たに構築していくことになりますが、後者では、全てはスルーされているように見える中、観客は当人に気づかれぬよう鑑賞を続け、また、当人はネタを提供し続け、馬鹿を晒し続けるという世界になります。

どちらが平和なのかと言えば、後者ですが、どちらが幸せなのかは難しいところです。