原動機付自転車

愛知県は非常に事故が多いのですが、当たり前だと声を大にして言いたい。愛知県の学科試験は他県と比べて非常に難しいと言われています。難しくて簡単に免許を取得させないのは良いのですが、その「難しい」が交通に対する理解度ではなく、どれだけ暗記しているか、どれだけひっかけにひっかからないか、どれだけ運が良いかなど、交通に全く関係の無い「難しさ」を設けているのです。馬鹿としか言いようがありません。だから交通事故が多いんだよと。

「交通に対する理解度」について、どのようにしたら深めることが出来るのか、という至極難解な問題。「交通に対する理解度」は、経験に負うところが非常に大きいのではないかと思われ、逆に言えば、常に初心者は理解度が低く危険性が高いのではないかと思われるふしもある。

交通教育の仕方を考えなければならないのかもしれないが、どうしたって、現実的な脅威に直面しないと、学習しないというか身に付かないという面が、人間にはある。実地に作業してみないと、現れない問題点や、気づかない点があり、つまりは、「教習」というより、「訓練」が必要なのではないかと思う。

免許を取得し公道に出た瞬間から、よき「交通に対する理解者」であれば、それに越したことはない。しかし、「教習」では得られない部分が多すぎるのである。それなら、教習方法や試験方法を変更(例えば、訓練に)すれば好いと思うかもしれない。

だが、ちょっと待ってほしい。

自動車やバイクといった交通手段は、国民の円滑な経済活動や生活を豊かにする道具である。それを利用する機会を極端に制限するわけにはいかない。なるべく簡便な方法で、かつ安全に利用することを可能にしなければならず、現在の免許制度は、その妥協点であると言えるのではないだろうか。

最低限度の知識や技術の学習を確認し、免許を発行する。後は、現場でのその運用において、研鑽し更なる学習を期待する、という方向性であり、最高の適性までを考慮し、免許発行の可否を判断するというものでは無いのが現行の免許制度である。

これは、現実の交通社会、既に免許を取得し運用している人達や、その社会で生きていく人々の側に、寛容を持って、新規参入者を受け入れるよう求めているのである。警察庁がよく使う、「思いやり運転」という言葉は、そういう意味も込められているのだ。

「交通に対する理解度」を深めるには、「訓練」し経験を積むことが肝要であるが、免許取得前にそれを期待するのは難しく、実地において学んでいくしかない。よって、試験方法の変更は、非常に困難であると予想されるのである。

また、「交通に対する理解度」が深いからといって、交通事故の削減に結びつくかどうかは、疑問が残る。と、ここまで書いてきて何だが、そも「交通に対する理解度」とは何か。私は、これを「交通法規の知識」を含み、なおかつ円滑な交通社会実現の為の諸知識や、実地運用の為の諸技術と考えている。よって、「訓練」により得られるものではないかと考えたわけだ。

愛知県のみの話になってしまいましたが、他の県でも、交通のルールなんて覚えなくても、学科試験直前に問題とその正誤を覚えれば免許を取得出来るという所もあるのではないでしょうか。

なので、免許試験に問題があるとも言えると思います。

また、原動機付自転車の運転手は、制限速度なんてお構いなし、走れる所なら歩道だろうが車の間だろうが反対車線だろうが思うままに走る方が沢山居ます。ちょっと早い自転車という気分で運転しているのではないでしょうか。そういったところも問題があると思います。

しかし、「交通に対する理解度」を、単に「交通のルール」を知っているかどうかという点にだけ絞るのであれば、それと交通事故の件数には、因果関係があまり無いのではないかと思う。ルールを遵守する気持ちが有るかどうか、という点が重要であり、現状の交通事故の多くは、その気持ちの無さによるところが大きい。前述の傍若無人な原付の狼藉行為について考えれば、ルールを知らないというよりも、まさに遵守する気持ちが無いことに原因があるように思えるのだが。

ただ、法を遵守する気持ちが有る、というのは、国民の大前提と考えるしかなく、それを試験と称して判定するわけにも行かないので、交通ルールの知識に関する試験を行うしかないわけだが。

とかなんとか、そうすると、傍若無人な原付の存在ってのは、国民性とか日本人の「社会」に対する感性とか言う話にもなっちゃうんだけどさ。