机の上と家族と幼児性
あー、ツッコミが。
「その人のもつ幼児性」とかいうものに、自分の家族を含めるのは違和感ある。一緒くたにするのは拙いんじゃないかな。
んー、家族の写真が許容範囲かどーか、という問題についての判断は今のところ避けます。そんでもって、fumingタンがどーゆー意図で幼児性と言ったのか不明なので、私個人が「幼児性」について、どー感じたのか説明しましょう。
それは以下のコメントに、ちょっと表現されているかなーと。
個人的にはそんな外観的なことで規律や態度を表さねばならない方がよっぽど「幼児性」というか「学生気分(校則のような)」に思えますねー。
つまりさ、逆に言えば、そんな外観的な規律や態度で表すことすら出来ないから、「幼児性の表れ」と言われてしまうのではないかと。まさに、学生気分なんぢゃないのかと。「そんな」というくらい矮小と思われるなら、我慢できるんぢゃないかと。規則で縛らなくても出来るから、「大人」なんだと言うこともあるんぢゃまいか。
個性の尊重とか自由とか言いながら、実は我儘を通そうとしているだけ。我慢が出来ないことを、自由だから、などと表現して誤魔化して自己正当化しようと考える。そのへんこそが、「幼児性の表れ」のような気がするわけ。
HTMLの仕様では、そういうこと出来ません、とか言われると「自由な制約のHTML」とか言い出すのと似てるのかも。
と、まあ、そうは言いつつも、日本古来的感覚はともかく、現状、机の上はどーなのよと問われれば、結局会社のポリシー次第だろうね、としか言いようが無い。第三者にどう見られようと、構わないんだってゆー会社なら、それに従えばよろしい。
なんつーかさ、任務より家族を重んじる文化なら、家族写真が机の上に有ることも奨励されるだろうし、家族より任務という文化なら、家族写真すら排除されるだろうし。
判断を避けた点だけど、家族写真があるから、即、幼児性っていうものではないけれど、それを片付けてほしいと言われて、我慢するかしないかで、或る意味、幼児性が問われるとも思えるわけ。まあ、文化の違いっていう側面が大きく影響するのでナニなんだけどさ。
結局、まあ、日本の職場もだいぶアメリカナイズされてきたんぢゃねーのか、と言えばそーなんだろうし。
で、こういう風に論じる場合の問題は、現在の一般的社会通念上どーなのよ、という判断なんだけど、まー多様性という言葉で誤魔化されつつ、かなりブレているトコロなんぢゃないかと。一方では、「幼児性の表れである」と断じる人もいるだろうし、「もうそういう時代ぢゃねぇんだよ」という人もいるだろうし。
ただ、幼児性を感じる人にとっては、もう、社会全体が幼児性に傾きつつあるんぢゃないかと思っているのかもしれないけれど、色々と。