公開することのリスクは誹謗中傷を正当化するものではない

気になったので、長いけれど引用。

平成十八年十月二十六日
首領氏、「ブログ」のサーヴィス提供者は匿名のコメント投稿者から「ブログ」の利用者を守らないと書いてゐるけれども、一方で、匿名の「ブログ」利用者が他人を中傷・侮辱し、氣に入らない人間に嫌がらせをしてゐても、被害者を守る事はしないで、寧ろ加害者である「ブログ」利用者を守らうとする。
「ブログ」サーヴィス提供者の言ひ分では、「コメント欄で直接やりとりが出來るから、サーヴィス提供者は問題に介入しない」と、さう云ふ事になるらしい。
かうなると、「ウェブでは加害者の側にまはる方が有利」と云ふ事になり兼ねない――と言ふより、既にさうなつてゐる。加害者の側にまはつても「匿名ならば安心」と云ふ心理は、まあ、慥かに「ある」だらう。で、「松原信者」は大抵實名で、「アンチ松原信者」(「アンチ松原」ではない)は大抵匿名である。しかし、實名・匿名は問題でなく、單に問題の中における一現象に過ぎない。飽くまで「嫌がらせを目的とする行動がある」と云ふ事が問題の核心である。「嫌がらせをして快を貪る」事を許してはならない。これは、まともな人間なら全員、首肯する事だと思ふ。ではなぜ「義」や「喜六郎」らは嫌がらせをして喜んでゐるか――實に、彼等には自分逹が嫌がらせをしてゐると云ふ自覺が無いのである。

引用つか転載になっちゃった。あは。

何かを公の場で話したら、可能性の有るあらゆる攻撃に晒されることがあると書いたわけだけど、ぢゃあ、殺伐としてれば好いのかよ、っていうと、そりゃあ違うだろ、とは思う。

それが野放しにになっている社会が健全であるとは思えないわけで、確かに野嵜氏が云う通り被害者を守る事はしないで、寧ろ加害者である「ブログ」利用者を守らうとしているような状況は異常と言わざるを得ない。

そういう意味で、Google が、Google 八分を行っているのは、或る意味、賢明であるとも言えるわけだ。もちろん八分された方にも、言い分はあるのだろうけれど、言論の自由はありますが、誹謗中傷の自由はありませんと、徳保タンも言ってたように、それなりの対応っていうものが望まれるトコロなんだろうなあ。

リスクはあるけれど、だからと言って「可能性の有るあらゆる攻撃」をしても好いというわけではないんだよ、という話。

なんか中途半端だし、見当外れだけど、人の悪意とか、後で書くかもしれないけれど、とりあえず。