いぢめられる方にも非が有るという考え方

「いじめられる方にも非がある」と良く聞く。本当にそうだろうか。そうならば「交通事故に遭う方にも非がある」となるし、「殺される方にも非ががる」となると思うのだけれども。交通事故は「強い方が悪い」という考え方だし、殺人は「殺した方が悪い」になる。

交通事故は「強い方が悪い」という考え方は、或る意味そうなんだけれど、自動車対自動車の場合、どーなのかを考えると、どっちも強いので、どっちも悪いとか、どっちも悪くない、という考え方になるんぢゃないかしらん。

というか、交差点内での事故の場合、過失が 10:0 になることは少なく(無いとは言えないけれど)、信号が青で直進してて、信号無視のクルマに突っ込まれた場合でも、少なくとも 9:1 とかで過失が有るということになることが多いような。まあ、ルール上では、交差点内では、安全確認して徐行とかいうことになってるからだろうけれど。

で、いぢめが発生するのは、人と人との問題なので、自動車対自動車と同様であると考えられるし、コミュニケーションってゆーのは、人と人が交わることだから、道路で言ったら、交差点ぢゃないかと思うので、まさに交差点内での事故ということで、どちらにも非があるという考え方も、有り得ると思うのです。

まあ、実際には、いぢめは自動車事故ではないので、云々。