はてなブックマークへの反論のコストみたいな話

公開言論に対する反論をドコで行ったら、反論したい人が満足するのか問題について、他。

公開されている言論への反論・批判は、公開されている言論にて行われればよい

はてブネガコメ(広義でいいよ)されたら、自ブログで引用URIなんて気にしなくてイイと思う、一覧ページのid誰某とか書けばイイ)して、反論なり批判すれば、それでコトは済むという考え方。池田先生が、よくやってますよね。必ず、自分の土俵で戦ってます。池田先生をdisったら、コメ欄に突撃されました、という人が居たら連絡ください。

もちろん、彼は、自分の土俵で戦うだけでなく、名誉毀損や酷い誹謗中傷と思われるモノに対しては、その他の手段も行使します。ひどいネガコメ(狭義)に対しては、運営者に対し、そういう意思表示もしてます。ただ、決して自分を同じレベルに落としての対応はしないようで、そのへんはヨイ戦い方なんぢゃないかなと思ってます。

いやいや、それぢゃ、自ブログの読者以外に伝わらないぢゃねえか

自ブログで引用・反論という戦法では、自ブログの読者には伝わるけど、「はてブ」の読者には伝わらない。(自ブログの読者と「はてブ」読者は同じ集合にならないから)反論が届かず、その周辺では、俺の評価は下がったままでくやしい、という感情。このへんが「はてブ」への反論の「敷居の高さ」みたいな認識になるのかなとも思う。だから、「俺への反論は俺のブログのコメ欄を使え」みたいな話になるのかもしれない。

ところで、ブクマカがコメントを発し、そのコメントは誰に向けて書かれたものかというコトを考えるとき、ブクマ先のブロガー(とは限らないけど)に向けて書かれたような様相を呈していても、そのコメントはブクマの読者に向けて書かれているわけで、必ず相手に届け〜・伝われ〜と考えているとは限らない。

「深夜の公演で全裸になるなんて、人間ぢゃねえ。二度とTVに出んな」とか書かれていたとしても、そのブクマカはそのコメントを草磲2:55に届いてほしいなんて思ってもいないだろう(いや、思ってるのかもしれないけど)。それを読んでいる「はてブ」読者に対し、メッセージを発している(つまり「全裸になったらTVに出られない社会が素晴らしいんだよ、皆もそう思うだろ」というメッセージ)と考えるのが妥当かと思う。

ブロガーが自ブログでメッセージを発するように、ブクマカはブクマでメッセージを発している。夫々が夫々のフィールドで夫々のメッセージを発しているわけ。

逆に考えると、ブクマされた記事っていうのは、俎上に載せられただけで、つまりネタとして扱われてるわけで、それをダシにして、ブクマカは己のメッセージを発しているということになると、それはそれで俎上に載せられたブロガーとしては面白くないのかもしれない。

でも、何かを公開するっていうのは、そういうことになることも間々あるわけで、そのへんを理解してブログなり「ホームページ」(鍵括弧付き)を運営するべきなのではないか。

とにかく俺をdisる奴をボコりたいんだよ

たしかに、何か批判されたら、そうしたい、俺も。

でも、自ブログで引用・反論するくらいしか方法は無いし、そのへんで手を打つしかないのかな。(新潮の批判を文春で展開するのはヤダっていう我が儘はアリなのかな)

はてブ」の問題は、100字制限にあるのかもしれないな。やっぱり短いので、勢い結論めいたことを書いたり、強烈な批判になったりしがちだし。ダイアリーや、せめてハイクなみになった方がいいのかな。反論ていうかリプライもアリにすると、まんま「はてなハイク」になっちゃうな。

結局、使い方なの?

まあ、「はてブ」に限らずTwitterとか他のミニブログだって起こりうるんだけど、罵倒や誹謗中傷は好くないね。法的にはセーフでも、なんか酷いdisにならないように気をつけないといけないんだろうな。「無職のくせに○○」とか「こんなこと書いてるようぢゃ○○も□□」とか「犯罪をおこしても開き直るタイプ」とか「イイ歳こいて○○○」とか。

で、そういうのを防ぐためにマイナス評価で云々という話になるのかもしれないけど、そうでなくて、「うわー、ひどい」と思われるブコメは、面倒だけれど、プクマ一覧ページに【利用規約違反を通知する】というフォームがあるので、当面は、それを利用して通知するのがヨイのでないかと思う。

まとめたい

で、結局、「はてブ」は100字制限を撤廃して、単独表示ができるようにしてほしい、と。

おまけ

しかし、思ふのだけれども、書いても書かないでも何うでもいい事を多くの人が書きたがる一方で、書かないよりも書いた方がいい事・書くべき事を多くの人が書きたがらない。そもそも、「何が大事か」を、誰も考へてゐない。ただ「意見を言へれば良い」「反論出來れば良い」――「いいシステムが出來れば自然に皆良い事を言ひ始めるだらう」と、樂觀的な見方をして、氣樂な事を言ひつゝ、氣樂に言爭つてゐる。それは一種の馴れ合ひだが――しかしさうした馴れ合ひですら「コストが高い」のだ。